手稲ステーションホテル
 
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船木旅館・手稲ステーションホテルの歴史

駅南口前にある船木旅館の誕生は、今から140年ほど前の明治 8年(1875)ころ。

船木福三郎(ふなきふくさぶろう)さんによって、石狩・手稲通と軽川街道の交差する現在の回転寿司「日本海」辺りで始められ、その後、明治14年(1881)に軽川駅ができたとき、現在地に移転してきました。

井桁に一の字「旅人宿」の看板を掲げた建物は、かやぶき屋根、中廊下でつながった平屋建ての2棟。中庭の池にはコイが泳いでいるような広く立派なものでしたが、明治39年(1906)7月10日の大火で消失し、その後2階建てになりました。昭和19年(1944)、41年(1966)の商店街の大火では、火の手は迫ったものの危うく難を逃れています。

建物にも変遷があったように、旅館に泊まったお客さんも時代と共に変化しました。戦前は本州からの行商人や、石狩のサケ、銭函沿線のニシンを商う人々に利用されました。中でも目立ったのは富山の薬屋さんで、五、六人の人達が春秋、それぞれ1月くらいの間、ここを拠点に列車を利用して滝川、倶知安方面まで足を延ばして行きました。そのころは 柳行李(やなぎごうり)をしょい(背負い)歩いての行商でしたが、それが自転車となり、原付自転車、バイク、ワゴン車と変化していきました。「昔おじいさんに連れられて来ていた高校生の薬屋さんは、67、8歳になった今も元気にここにやって来るんです」と4代目の宏通(ひろみち)さんは話します。戦時中は、日本石油、手稲鉱山の関係者が増え、鉱山の盛んなころは勤務明けの人達が多く利用していました。女性客などはいない時代で、年1回鉱山技師の夫婦が泊まったのが珍しいくらいでした。

また変わったところでは昭和23年(1948)から28年までの間ころ競馬場(現小樽カントリークラブ旧コース辺り)があった時には予想屋さんが、そして「手稲まつり」のころは旅芸人、有名な浪花節語り、興行師なども泊まりました。手稲鉱山や日本石油製油所でまちがにぎわっていた昭和7、8年ころから25、6年ころまでは、船木旅館のほかに藤の湯、目黒商人宿、緑荘、手稲山荘と五軒もの旅館があったそうですが、今は船木旅館だけになりました。
平成12年3月札幌市手稲区発行 「手稲でみつけた手稲の話」より


平成12年2月
船木旅館 閉館
平成12年7月7日
手稲ステーションホテル 開業
平成14年5月
JR手稲駅 新駅舎完成 開業
平成15年8月
当ホテル社屋2階の「ペデストリアンデッキ」(駅舎と接続する通路)が完成